東運寺 盂蘭盆施食会でお話しました

令和8年7月8日に京都市伏見区淀にある東運寺さんの盂蘭盆施食会法要で法話をさせていただきました。
貴重な機会をいただきありがとうございました。施食会法要についての解説を中心にお話しました。

令和8年 東運寺 施食会法要 法話「与えることから始まる供養~施食会~」

以下、法話より

おはようございます。私は亀岡市にあるお寺で住職をしております、大井龍樹と申します。どうぞよろしくお願いいたします。

当たり前の日常への感謝

 こちらの東運寺さんの方では、年3回この施食会法要が営まれているということでございます。春と秋のお彼岸、そしてこの7月はお盆の意味合いも含められております。毎回ご出席されている方もいらっしゃいますね。ようこそお参りくださいました。ありがとうございます。

 お寺には様々な恒例行事があり、準備やお掃除など皆様のお力をいただきながら営まれております。
コロナ禍の折には、「毎年行っているこの法要はできるのだろうか」「やって良いのだろうか」と、町内の行事と同じように悩んだ時期もありました。その時に痛感したのは、「毎年同じようにさせていただけることが、どれだけありがたいことか」ということです。代々なんとなくやってきた行事も、決して当たり前ではありませんでした。

 日常が戻ってまいりますと、人間というのは「また法要か、忙しくなってきたな」と、つい不平不満のような気持ちも芽生えてくるものです。しかし、やはり毎年できること、そしてお参りさせていただけることは、けっしてあたりまえではない、本当にありがたいことなのです。

 皆様は、この言葉をご存じですか?
「なくして分かるありがたさ 親と健康とセロテープ」
相田みつをさんの言葉ではありませんよ。実はニチバンというセロハンテープの会社のキャッチコピーなのです。くすっと笑えますが、本当にその通りですよね。
 セロテープに限らず、物事というのはなくしてから「当たり前ではなかった、ありがたいことだった」と気づきがちです。それでは遅いのですが、それが人間の弱さであり、性(さが)でもあります。

 だからこそ、「今、足元を見つめなさい。それをしっかり受け止めて生きていきなさい」というのが、禅の教えであり、仏教なのだと思います。

「施食会」とは壮大な食事会

 本日は「施食会(せじきえ)」という法要にお越しいただいております。漢字で「食を施す会」と書きます。お彼岸やお盆など、時々に行われる法要です。

 私の寺では8月16日のお盆に施食会を行っており、初盆の方を中心に「施食会法要のご案内」をお送りしております。ある時、お檀家さんから「来月のお食事会、3名出席させていただきます」とお電話をいただいたことがありました。「食事会?」と思ったのですが、「食を施す会」と書くため、勘違いされてしまったのですね。笑い話ではありますが、皆様の中にも「お寺でごちそうが出るから朝ご飯を抜いてきた」という方はいらっしゃらないですか?

 しかし、この勘違いはある意味で的を射ています。施食会とは言い換えれば、「見えないものに対してお食事を施す、壮大な食事会」なのです。皆様はご先祖様のためにお越しいただいておりますが、今日はこの施食会がどのような法要なのかを少しお話しさせていただきます。

阿難尊者と施餓鬼(せがき)の起源

施食会の起源には、ある物語がございます。古い方でしたら「お施餓鬼(せがき)」という呼び方に馴染みがあるかもしれません。宗派や地方によっては現在も施餓鬼と呼んでいますが、施食会と同じ法要です。

お釈迦様のお弟子に、阿難(あなん)尊者という方がいらっしゃいました。実はこちらの東運寺様のご本尊(お釈迦様)の向かって右側にいらっしゃるのが阿難尊者です。お釈迦様の従兄弟にあたり、すぐそばでお仕えし、最も多く教えを聞いた「多聞第一」のお弟子と言われています。

ある夜、阿難尊者が坐禅をしていると、突然「餓鬼(がき)」が現れました。首は針のように細く、お腹はぷっくりと膨れ、常に「もっとくれ」と飢えている焔口餓鬼(えんくがき)という口から炎を出している餓鬼です。その餓鬼が「お前は3日後に死ぬぞ」と告げました。

驚いた阿難尊者が、そうならないためにはどうすればよいかと問うと、「世の中にたくさんいる全ての餓鬼に対して食べ物を振る舞え。食の供養をすれば命を長らえることができるだろう」と言います。しかし、托鉢で修行をしている阿難尊者に、全てに行き渡るような食べ物はありません。

困って相談したところ、お釈迦様はこう言われました。「心配することはない。食べ物を広大無辺に増やす陀羅尼(だらに)という真言を知っているから、それを唱えなさい」。阿難尊者が食事を用意し、一心に陀羅尼を唱えると、食べ物は無限に広がり、世の中の苦しむ餓鬼を全て救うことができたのです。これが、施餓鬼(施食)という法要の起源です。

三界萬霊と回向(えこう)の教え

本日の法要のメインステージは、ご本尊様ではなく、縁側の方に向けられた「施食棚(餓鬼棚)」です。餓鬼は仏様がいらっしゃる本堂の中には恐れ多くて入ってこられないため、少しでも外に近い場所に祭壇をしつらえ、施しが届くようにしているのです。

「私は餓鬼の供養に来たのだろうか?」と思われるかもしれませんが、餓鬼とは苦しんでいるものの象徴です。
祭壇の真ん中にある大きな大きなお位牌には「三界萬霊等(さんがいばんれいとう)」と書かれています。
三界(欲界・色界・無色界)のあらゆる世界に生きとし生けるもの、水のもの、陸のもの、動物、虫、そして亡くなられたご先祖様を含めたすべての存在に対して、水や生米、お茶などをお供えし、食べ物を施すのです。

さらに、仏教には「回向(えこう)」という素晴らしい仕組みがあります。

まずは三界萬霊や餓鬼に食を施すことで、広大無辺の大きな功徳を得ます。そして、その得た功徳を皆様のご先祖様に向けていくという二段構えの法要になっています。

例えるなら、私が持っている1つのお弁当を、陀羅尼によって広大無辺の量に増やし、あらゆる人に自由に配ります。すると後日、「あの時はありがとう」とたくさんのお返しや感謝をいただきます。1対1の行いも尊いですが、皆様のお力でたくさんの食事に変えて多くを救うことで、一人で行う以上の大きな功徳が生まれ、それをご先祖様に振り向けることができるのです。

法要の中で、導師様はこのようなお唱えをされます。

この施食の功徳を、「六親眷属七世の父母(親兄弟や何代にもわたるご先祖様)、有縁無縁三界萬霊、法界の含識(縁の有無に関わらずすべての存在)に回向す」

自分だけのご先祖様が良ければいいのではなく、自分と関わりのないすべての存在の幸せを願い、そこに功徳を振り向けていく。これがこの壮大な法要の意味です。

布施とは「貪らざる」こと

皆さんは「餓鬼」はどこか遠い世界の存在と思われているかもしれませんが、そうではないんです。
私たちは「もっと欲しい」「自分だけ得をしたい」「人を妬んでしまう」といった、足りない足りないという不満を持つことがあります。これが「餓鬼の心」であり、私たち一人ひとりの中にも潜んでいます。

施食会は、皆様自身が食事を施す、すなわち「布施」を行う法要でもあります。
布施とはお寺にお金を供えることだけではなく、広く行き渡らせる(ダーナ)という意味があります。人に施すこと、分かち合うことは、渡したくないと執着する「餓鬼の心」ではできません。

道元禅師は、布施について端的にこう残されています。

「布施とは貪らざるなり」

貪らないこと、それが布施の本質です。皆様は施主として、その布施の行いをさせていただいているのです。

施食会の意味合い、内容についてすこし詳しくお話ししました。難しく聞こえたかもしれません。
どうぞ、法要の意味合いを頭の片隅においていただくだけでけっこうです。
皆さんは「ご先祖様のため、亡き方のためにお参りに来た」というそのお気持ちで十分です。

食べ物をすべての存在に行き渡らせる陀羅尼は、私ども僧侶がしっかりとお唱えさせていただきますので、どうかお任せください。

皆様は静かな気持ちで、亡き方への思いや世の安寧を願いながら手をあわせていただければと思います。

施食をすることで、皆様も知らず知らずのうちに「餓鬼」の心から放たれ、幸せの道へと繋がっていくはずです。

お寺は、自分の足元を見つめ、過去を振り返り、どれだけ多くの人に支えられているかを感じる場所です。前を向くことも大切ですが、時には後ろを向き、そこから生きる力を得ることも必要です。

この後の施食会法要が、皆様のこれからの幸せに繋がる時間となりますよう、心を一つにしてお参りいただきたいと思います。

本日は短い時間でしたが、施食会についてお話しさせていただきました。どうもありがとうございました。