「楠木屋敷」と呼ばれて

昌寿院は、かつて「楠木屋敷」とも呼ばれ、南北朝時代に活躍した楠木正成の次男 楠木正時の妻(関正實の娘)が暮らしていたと伝えられています。寺紋が「菊水」であることもそのことを物語っています。

昌壽院山門

「楠木屋敷」と呼ばれて~楠木家との縁~

 南北朝時代の正平3年・貞和3年(1348年)、楠木正成の次男 正時は、足利尊氏が派遣した高 師直・師泰の北朝方軍勢と四条畷で激戦をくりひろげました。(いわゆる『四条畷の戦い』)この戦いで敗れた兄の正行、弟の正時は自刃しました。
 楠木正時の妻(関政實の娘)は、北朝方の難を逃れるために故郷の三宅村(現・亀岡市三宅町)に戻り、男子を生み、正世(関小次郎正世)と名付けました。
実家の姓「関」を名乗り、寺院が創建されるまで楠木正成の子孫が代々住み、「楠木屋敷」とも呼ばれていたと伝わります。

「昌寿庵」として開創される

 室町時代 弘治3年(1557年)、関正世から八代末裔の摂津守正長が出家入道し穏山正休と号し「昌寿庵」を創建し、先祖の菩提を弔ったことに始まります。
現在より、北西に位置する地、猪ノ坂(井ノ坂)の地であったと伝わります。(草叢開基の関摂津守正長(昌壽庵穏山正休大禅定門)は永禄3年(1560年)2月に示寂)

 その正長の長男である正則は、天正3年(1575年)明智光秀の丹波平定により、その地を滅ぼされ、摂津・能勢へ逃れました。
しかしながら、正則は文禄の頃に、再びこの地にもどり文禄4年(1595年)に「幽僊斎」と名乗り、草庵を建立しました。その翌年、慶長元年(1596年)4月20日に宗淵昌長和尚を開山とし、浄土宗の寺院となっています。

曹洞宗「昌寿院」として

 その後、昌寿庵は類焼の被害を受け、貞享3年(1686年)に現在の地に再建されました。昌寿霊場という名称も伝わっています。
 曹洞宗になるのは、大嶺宜鑑大和尚を勧請開山に迎えたことに始まっています。詳細は定かではありませんが、享保21年(1736年)に大嶺宜鑑大和尚は遷化されており、享保年間(1716~1736年)の終わりごろではないかと推測されます。その後、寛政元年(1789年)に「昌壽院」と改められ現在に至ります。
 明治元年(1868年)に本堂が完成しましたが、明治27年3月に出火。本堂は火災から免れたものの、位牌堂の一部と庫裡、方丈の間を焼失し、寺の歴史に関する文書は灰燼に帰しました。

 代々の住職と檀信徒は修繕、改修を重ねてきましたが、老朽化が激しく修復が困難であると判断して、現 東堂・当山二十世光圓美樹大和尚(大井美樹)が昭和48年(1973年)に檀信徒総意のもと浄財を募り、本堂・庫裏、鎮守堂の再建を行いました。
 また、平成4年(1992年)には、京都府及び亀岡市の文化財補助金と檀信徒の浄財により、山門の修復、地蔵堂の修復、参拝者の為の休憩、客室の新築、給排水の整備、竹林、栗林を開墾して駐車場の設置、参道の張石などを施工。境内全域の環境を整備して、檀信徒先祖代々の菩提を弔う安住の地として現在に至っています。

 この地は、亀山城外濠の東南隅みにあたり、古世城の「二の郭」があったとされます。城下町の東の入口で周囲は広大な田畑、樹木と竹藪、東側を泥沼の堀に囲まれた高台でありました。現在も、篠町柏原方面を見渡すことができます。

上空からの昌寿院


略年表

年代出来事
1348年頃
(南北朝時代)
- 四条畷の戦いで、
 楠木正成の次男・楠木正時が敗北し自刃。
- 正時の妻(関正實の娘)が北朝方の難を逃れ、
 故郷の三宅村(現・亀岡市三宅町)に戻る。
- そこで男子を出産し、正世(関小次郎正世)と名付ける。
- 正世は実家の姓「」を名乗り、
 「楠木屋敷」と呼ばれる場所に住む。
1557年
(弘治3年)
- 正世の末裔である摂津守正長が出家し、
穏山正休と号する。
- 先祖の菩提を弔うため、
 三宅村井ノ坂の地に「昌寿庵」を創建。
- 永禄3年(1560年)に正長は示寂。
1575年
(天正3年)
- 正長の長男である関 正則が、
明智光秀の丹波平定により領地を失い、
 摂津・能勢へ逃れる。
1595年
(文禄4年)
- 正則が再びこの地に戻り、
幽僊斎と名乗って草庵を建立。
1596年
(慶長元年)
- 宗淵昌長和尚を開山として、
 浄土宗の寺院「昌寿庵」となる
1686年
(貞享3年)
- 類焼にて「昌寿庵」が焼失。1684年?
- 1686年に現在の地に再建される。
1730年前後
(享保年間)
- 大嶺宜鑑大和尚を勧請開山に迎え、
曹洞宗の寺院として再興。
- 享保21年(1736年)に大嶺宜鑑大和尚が遷化。
1789年
(寛政元年)
- 寺院の名称を「昌壽院」に改める。