菊水紋の山門

昌寿院は、かつて「楠木屋敷」とも呼ばれ、南北朝時代に活躍した楠木正成の次男 楠木正時の妻(関正實の娘)が暮らしていたと伝えられています。寺紋が「菊水」であることもそのことを物語っています。昌壽院山門

南北朝時代の正平3年(1348年)、楠木正成の次男 正時は、足利尊氏が派遣した高 師直・師泰の北朝方軍勢と四条畷で激戦をくりひろげました。(いわゆる『四条畷の戦い』)この戦いで敗れた正行、正時兄弟は自刃しました。
正時の妻(関政實の娘)は、北朝方の難を逃れるために故郷の三宅村に戻り、男子を生み、正世(関小次郎正世)と名付けました。
実家の姓「関」を名乗り、寺院が創建されるまでその地に、楠木正成の子孫が居とし、「楠木屋敷」とも呼ばれていたと伝わります。

もとは、永禄時代の初め(1557年)、現在の場所より、北西に位置する地、猪ノ坂(井ノ坂)に「昌寿庵」として創建されました。その後、類焼により、貞享3年(1686年)に現在の場所に再建され、寛政元年(1789年)に「昌壽院」と改められました。
草叢開基は関摂津守正長(昌壽庵穏山正休大禅定門)です。

この地は、亀山城外濠の東南隅みにあたり、古世城の「二の郭」があったとされます。城下町の東の入口で周囲は広大な田畑、樹木と竹藪、東側を泥沼の堀に囲まれた高台でありました。現在も、篠町柏原方面を見渡すことができます。

DCIM100MEDIADJI_0336.JPG